活動予定

予定表
実施日行事内容担当者申込締切
9/28(日)文学散歩:横浜第2弾18期 谷口9/23(火)
10/26(日)文学散歩:本郷~小石川12期 轡田10/23(木)
11/9(日)ハイキング:湘南アルプス14期 田村10/31(金)
11/22(土・予定)総会

共通ルール

  1. ハイキングは、昼食(お弁当)、行動食、装備など各自準備ください。
  2. 日程は、変更、中止があります。参加の場合は、事前に必ず連絡願います。
  3. ご家族、友人、現役の方の参加も大歓迎です。

予定詳細

横浜文学散歩第2弾 「横浜のみなとに沿って文学に浸る」

日時
2014年9月28日(日)
集合場所
東急みなとみらい線 元町・中華街駅(5~6番出口方面改札口)
申込先
18期谷口まで
コース
みなとみらい線元町中華街駅集合→文学碑(中島敦)→蓮光寺(吉川栄治)→ゲーテ館(北村透谷、坪内逍遥他)→大佛次郎記念館もしくは神奈川近代文学館(神奈川と作家達)→マリンタワー(吉行淳之介)→弁天通(獅子文六、小島烏水他)→大桟橋(森鴎外、五木寛之他)→新港埠頭(三島由紀夫他)→ドックヤードガーデン(吉川栄治他)*(OP)帆船日本丸.横浜みなと博物館→野毛山公園界隈(中村汀女、有島3兄弟、獅子文六)→野毛飲食街

 横浜文学散歩、昨年5月の第1弾「横浜開港に秘められた歴史」に続く、第2弾です。昨年は「文学」というよりは「歴史」の色合いが強い企画でしたが、第2弾では文学色を強め、みなと横浜にまつわる作家たちの足跡を辿ります。
1)元町中華街駅から山手へ:最初に向かうは、33歳の若さで亡くなった中島敦(代表作 「山月記」)の文学碑、さらに国民的作家吉川栄治(吉川家)のお墓がある蓮光寺に立ち寄る。その先フェリス女学院(川端康成の「乙女の港」の舞台)のそばを通り、山手の周辺から坂を上り、港の見える丘公園エリアへ。透谷や逍遥らも観劇したゲーテ座記念 岩崎博物館もある。昨年も訪れたが、今回神奈川近代文学館では、「文学の森へ 神奈川と作家たち」(第1部 夏目漱石から萩原朔太郎まで)の常設展が当日9/28まで予定、そして隣接する大佛次郎博物館と、どちらか選んで見学。
2)マリンタワーを通り、山下公園へ:作家 吉行淳之介は『砂の上の植物群』では、冒頭に「港の傍に、水にそって細長い形に広がっている公園がある」と書き、「男が山下公園から最近建てられた塔(マリンタワー)で女子高生と出会う」ところから物語が始まっている。
3)大桟橋へ:途中立ち寄りたい通りは、作家獅子文六の生誕の地である弁天通、横浜出身の山岳文学家 小島烏水(日本山岳会 初代会長)は、上京した石川啄木とこの弁天通の旅館「長野屋」で逢ったという故実もある。ジュール・ベルヌの『80日間世界一周』で当時の横浜港が記述されている。森鴎外の留学中の体験をもとにした『舞姫』では、彼を追って日本にやってきたドイツ留学中の恋人エリーゼが大さん橋に降り立つ。五木寛之の「青年は荒野をめざす」では、主人公の青年が、ここからナホトカ港に向けて旅立った。
4)汽車道を歩き、赤レンガ倉庫へ:汽車道は鉄道廃線跡を利用した遊歩道。この辺りから、多くの人たち(作家や画家も)が海外へと旅立った。川端康成が『花のワルツ』では、その当時の臨港カフェと桟橋食堂が書かれている。 さらに新港埠頭は、三島由紀夫が元町のブティック経営者の未亡人と航海士のロマンスを描いた「午後の曳航」(1963年)の舞台のひとつである。
5)赤レンガ倉庫からランドマークタワー下の「ドックヤードガーデン」へ:〝かんかん虫〟として働いた吉川英治、当時17歳を20歳と偽り、横浜船渠(ドック)の船渠部で働いた。彼らは「かんかん虫」と呼ばれ、船のさび落としが仕事、作家・長谷川伸もこの「かんかん虫」を経験している。
*もし時間が許せば、帆船日本丸の脇?「横浜みなと博物館」へ、ペリー来航からの港の変遷を見て、「横浜港を舞台にした映画(日活映画など)やドラマのコーナー」で、映像になった昭和の横浜港の雰囲気に浸る。
6)野毛山公園界隈:桜木町の駅を突っ切り、野毛山公園へ、ここには 俳人中村汀女の句碑がある。何よりこの付近は、有島3兄弟(有島武郎・有島生馬・里見弴)の生誕地でもある。
 きっとこの頃には 空腹とのどの渇きが限界に達しているはず、一気に坂を駆け下り、野毛の繁華街へ。横浜ベイエリアには、お洒落なお店も多いが、岳文仲間は、やはり庶民的な野毛の飲食店街が合っている?
 一軒目は、女優 樹木希林さんのご実家、創業60年の「叶家」あたりはどうでしょうか。そして仕上げは、日本で最も歴史のあるジャズ喫茶「ちぐさ」あたりでグラスを傾けるのもよい、色々考えられますね。
 以上、今回も盛り沢山の企画です。ご参加の皆様の気力、体力を伺いながら、コースは臨機応変に、と考えます。昨年と辿るルートやエリアはあまり変わりません。しかしながら、 昨年は「歴史」、今年は「文学」と、違った切り口で巡ると立ち寄るところも変化します。 横浜の港に沿って、ともに文学に浸りましょう。
コース選択 案内文記述:佐藤彰芳 谷口一哉
資料提供:轡田先輩

本郷から小石川へ 漱石と啄木、盛岡中学の俊秀たち」

日時
2014年10月26日(日)
集合場所
地下鉄丸の内線 本郷三丁目駅改札
申込先
12期 轡田まで
コース
本郷三丁目駅 ― 啄木旧居跡(理容喜之床・現アライ理容店) ― 文信社跡(賢治の勤務先・現東京眼鏡店) ―金田一京助終焉の地 ― 賢治居住跡 ― 啄木・京介居住跡(赤心館跡)- 啄木・京介居住跡(蓋平館跡)― 京介旧居跡― 漱石旧居跡 ― 幸田露伴・文・青木玉住居 ―傳通院 ― 法蔵院(漱石居住跡)― 歌塾「萩之舎」跡 ―川口松太郎終焉の地 ― 永井荷風生誕の地 ― 新福寺(漱石居住跡)- 小石川植物園 ― 啄木終焉の地 ―徳川慶喜終焉の地 ― 地下鉄茗荷谷駅

漱石と啄木は同じ時期に朝日新聞社の社員であった。漱石の病床に啄木が見舞いに行ったという記録もある。金田一京介と啄木は盛岡中学の先輩・後輩の間柄で、京介が3年のとき啄木は1年で同じ文芸部に所属していた。啄木の数年後に賢治もまた盛岡中学に入学した。今回はこのような関係を主として散歩してみる。

まず、理容喜之床跡に行く。啄木は朝日新聞社に入社して安定した収入を得るようになったので、家族を呼び寄せようやく一緒に暮らすようになった。喜之床の建物は明治村に移築されている。そこから赤門前に行く。賢治は花巻から上京し、文信社という印刷会社で働きながら宗教活動をして、精力的に創作活動を行った。この近くに京介の終焉の地がある。その後、菊坂にある賢治の居住跡に寄ってみる。

啄木と京介は赤心館という下宿に住んだ。ここで啄木は家賃を滞納したが、京介は蔵書を売り払って啄木の家賃を清算し、蓋平館別荘という下宿屋に共に移り住んだ。京介は物心共に啄木を支え続けたのである。この蓋平館別荘跡には啄木の「東海の 小島の磯の白波に~」という歌の碑がある。この後、京介・春彦の旧居跡を訪ねる。

次に漱石が猫の家から転居した住居跡に行く。ここは、「三四郎」の中で広田先生が転居してきた家の舞台となっている。ここから白山通りを渡って、幸田露伴・文・青木玉と続く幸田家4代の家へ行く。かって「蝸牛庵」と呼ばれていた家であるが、現在は建替えて立派な家になっている。坂を上がったところに傳通院がある。家康が生母於大の方の冥福を弔うために建立した寺である。於大の方、千姫、佐藤春夫、柴田錬三郎等の墓碑がある。この近くに、漱石が松山に赴任する前に間借りしていた法蔵院がある。

春日通りを渡って、一葉が通っていた歌塾「萩之舎」跡を訪ねる。主宰者中島歌子の生涯は朝井まかて著「恋歌」に書かれている。近くに第一回直木賞を受賞した川口松太郎が家族と共に住んだ「川口アパートメント」があるので寄ってみる。松太郎はここで亡くなった。さらに先にいくと、永井荷風生誕の地がある。高級官僚の長男であった荷風は、高等師範学校付属尋常中学校までここで過ごした。

春日通りを渡り返して、漱石が大学予備門受験の際に、友人たちと間借りして勉強した新福寺があるので寄って、小石川植物園へ行く。ここは吉宗が、大岡越前守に命じて作らせた小石川養生所のあった所である。山本周五郎が「赤ひげ診療譚」として著し、黒澤明が作った「赤ひげ」の舞台である。ゆっくりと園内を散策し一休みしよう。

近くの啄木終焉の地に向かう。啄木はここで父、妻節子と友人若山牧水に看取られながら明治45年4月13日永眠した。結核で27年の短い生涯を終えた。6月に次女誕生、同月第二歌集「悲しき玩具」が出版された。 桜名所として名高い播磨坂を上って、春日通りを渡った先に徳川慶喜が家族と共に晩年を過ごした住居跡がある。地下鉄茗荷谷駅はすぐ近い。駅近辺での打ち上げとなる。

*本郷周辺を歩くときには、一葉関係の旧跡の近くも回ります。一葉文学散歩に参加しなかった人が今回参加された場合は、一葉の旧跡にも寄りたいと思います。

高麗山から湘南平へ(湘南アルプス) -歴史ある高麗山から絶景の展望そして大磯の散策-

日時
2014年11月9日(日)
集合場所
JR東海道本線大磯駅改札口
申込先
14期 田村まで
コース
大磯駅(30分)高来神社(20分)高麗山(5分)八俵山(15分)浅間山(10分)湘南平(15分)楊谷寺横穴墓群(20分)大磯駅前(5分)地福寺(5分)新嶋襄終焉の地(10分)鴫立庵(7分)島崎藤村旧宅(5分)大磯駅 歩行2時間27分

 東海道本線の平塚駅を過ぎると間もなく、貨物ヤードの向こうにこんもりとした緑の山が見えて来る。これが高麗山である。安藤広重の「東海道五十三次 大磯虎ケ雨」にも描かれ、奈良時代にこの山側一帯に高句麗からの渡来人が居住し集落を作ったことから「高麗山」の名前がついたと言われている。車窓にひろがる緑の風景をながめているとまもなく大磯駅に着く。江戸時代には東海道の宿場町として賑わい、明治になってからは日本最初の海水浴場、そして政財界等の各界の名士の邸宅が建ち並んだ避暑地として賑わった所である。瀟酒な大磯駅の駅舎を出て左手を緩やかに下って行くと国道1号と出会う。左手に曲がりしばらく行くと旧東海道松並木の道への分岐がある。道の両側の松並木を見ながら行くとやがて化粧坂で再び国道1号と合流する。少し行くとやがて高来神社の参道が左手に見えて来る。鳥居をくぐり、石段を登ると高来神社の社である。参拝をすませ右手奥に回ると登山道入口の標識がある。今回は右側の女坂から高麗山山頂をめざす。階段状の登り道を鬱蒼とした大木が包み込んで、神聖な山を登っているという雰囲気になる。スダジイ、タブノキなどを主体とする南面は県の天然記念物となっている。やがて石の階段が現れ、それを登りきると広い空き地が眼前に広がる。ここが高麗山山頂(168 m)である。奥の方にはかつての上社跡の礎石が残っている。歴史を辿ると、関東公方足利持氏が室町幕府に反旗を翻した永享の乱(1438年)の時、幕府側の上杉持房が高麗山に陣を構え勝利を収めている。永正7年(1510年)の権現山合戦においては、伊勢新九郎(北条早雲)が高麗山に城を造り後詰としている。以後、北条氏は狼煙台を設け連絡用の砦としている。高麗山山頂を少し下り2本の木の橋をわたると八俵山(160m)である。そこから稜線上の平坦な樹林の道を行くと浅間山(181.3m)で小さな石の祠と一等三角点がある。そこから少し下り登り返すと湘南平のテレビ塔が見えて来る。ひろびろとした湘南平の小田原寄りにある展望台に登ると、眼下に大磯の町や相模湾が広がり、遠くは丹沢山塊や箱根連山、江ノ島、三浦半島、房総半島が一望のもとに見渡せる。しばしの間、この大パノラマを楽しみたいと思う。下りのルートはいくつかあるが、今回は7世紀頃の墓といわれる楊谷寺横穴墓群を経由して大磯駅前まで戻る。まだ時間が早いので大磯市内を散策したいと思う。まず島崎藤村の墓がある地福寺、大磯照ヶ崎海水浴場の碑、そして新嶋襄終焉の地(徳富蘇峰の筆による碑が建っている)を訪ねる。そこからさらに道なりにしばらく行くと西行法師の歌で名高い鴫立沢に鴫立庵がひっそりと建っている。現在は日本三大俳諧道場の一つと言われている。そこから国道1号を渡り路地を入ってしばらくゆくと、島崎藤村が亡くなるまでの2年余を過ごした旧宅がある。「東方の門」執筆中に倒れ71歳の生涯を閉じた家である。家の中を見学の後は近くの旧東海道松並木に面する蕎麦屋で軽く打上げを行なう予定である。